ぱたこの頭のなか

アラサーのぱたこです。なんだかいろいろなものに手をつけてどれも中途半端になって少しだけ戸惑う人生です。でも、そんななかでもちょっぴり開きなおってみて、好きな映画や音楽、モノやコト、思っていることなど、私の頭のなかで悶々とうごめいていることを綴ります。それで自分でも何かに気づいたり、何か変化するきっかけになればいいなとの目論見もありつつ。。お気が向いたらぜひ、頭のなかを覗いてやってください。

ブログタイトルを変えてみた

ブログ更新がいちじるしく滞っていた。

ので、今日からはブログが続くように

ブログ名をちょっとだけ変えてみた。

 

何でも手をつけて中途半端になるたちだ。

でも、それも自分の味だと開き直って、

他の人と同じようには生きられないのだから

誰かと比べずに、自分が楽しめて、

やりたいと思うようなことをやっちゃうしかない。

 

実は、やってもやらなくてもそんなに世の中変わらない。

だったら、嫌なことをするんじゃなくて、

やりたいことをやっておかないと損だ。

 

わたしひとりの失敗や恥なんて、

地球からしたら本当に小さなもの。

まわりの人の目を気にしすぎなければ、

できることはたくさんあるのかもしれない。

 

てーことで、これからやりたいことやるぞ!

 

ぱたぱたっ

 

10年来の鼻炎を治したいがためにやめてみたこと(または回数を減らしたこと)

・化粧品を使うこと

・洗剤を使うこと

・体を締め付ける下着を着用すること

・シャンプー、リンス、ボディーソープを使うこと

・添加物の入った食品を食べること (コンビニエンスストアの食品やスーパーの惣菜なども食べないこと)

・砂糖を摂取すること(甘いものを食べること)

・上記以外の化学製品を使うこと

・1日3食

・耳鼻科に行くこと

 

以上がやめてみたこと、または回数を減らす努力をしていることだ。

結論から言うと、個人の感覚的な実感ではあるため、因果関係ははっきりしないが症状はゆるやかではあるが改善した。

一番症状がひどいといえるのが鼻づまりだったのだが、鼻がつまる回数が前はほぼ毎日だったが、今はつまっているなと思う日が数日だ。でも、私にとってこの変化は劇的!! 明らかにやめてよかったといえる。

先にあげたことをやめ始めた期間はまちまちだが、長くてもここ1年以内くらいのことだ。

鼻炎症状が以前はどのくらいひどかったかと言うと、、、

いつもなら特にこの冬の時期は両鼻ともつまってしまい、そのせいでしゃべるだけでも息苦しくて疲れるし、酸素が行き渡らないせいで頭もボーっとしがち。さらに口で息しているから口の中もとても乾燥するといった具合。 鼻のつまり具合もときには窒息するのではないかというほどのつまりで、死ぬかと思うレベル。 鼻がつまっているとそのせいにはしたくないのはやまやまなのだが、やる気も減退するのは気のせいではないだろう。 また、私の鼻炎は鼻づまりだけにとどまらず、嗅覚障害もあった。匂いを感じられるのは年に1度とか多くて数回(年単位です)で、食事も基本的には匂いがしないので、舌で感じるしょっぱいとか甘いとかそれぐらいしかほぼ感じなかった。

 

事の始めは、17歳くらいのとき。風邪を長引かせ、その影響で鼻の症状だけがずっと残ってしまった。当時は多分まだ嗅覚障害はそこまでひどくなかったと思うが、19歳くらいに嗅覚が本当に効かなくなったのを実感した。そのときは鼻がつまっていないのに、匂いだけわからなくて、ものすごいストレスだった。あまりに辛くて泣きそうだった。

耳鼻科に相談したら、原因はわからないが鼻中隔が曲がっているからかもしれないと言われ、大学病院で鼻中隔を削る手術を勧められた。その大学病院でも診てもらったが原因はわからず、強いていうならその鼻中隔湾曲症とあと鼻の粘膜が腫れて膨張していることで鼻を圧迫しているのでは、そこを修正すれば治るかも?的なことで手術を勧められ、手術をしてみたのだ。手術後1~2年は確かに症状が改善し、匂いなどもわかることが多かったのだけれど、また数年経つと症状が悪化してきた。それからたびたびまた耳鼻科に行って薬をもらったり治療してもらったりするものの、なかなか改善しなかった。

17歳のころからもうかれこれ10数年、そのような鼻づまりと嗅覚障害のある鼻炎に悩まされてきた。もう治らないし一生この鼻炎とつき合っていくしかないのかとあきらめかけていた。

 

が、しかし! いやいやこのままではずっと鼻づまりの症状のつらさで鬱蒼とした日々を送らねばならない、まずはいろいろなことを置いておいて、鼻炎症状を治すことに注力してみよう!!と思い返した。

そもそも耳鼻科に行く以外に自分では何もしていなかったのに気付いた。病院に行っても治るものでないなら(というか病院では治せないと気づく)、自分の生活を見直す必要があるのでは?と思い、そこから変えてみようと思いたったのだ。

 

そうして、初めにあげたことをやめたのだけれど、本当に成果がだいぶあった。嗅覚も完璧には戻っていないけれど、毎日うっすらと匂いはわかるようになっているし。疲れにくくもなった。気のせいかもしれないが(いや、でも確かに)前より活動的だ。

 

科学的な根拠はわからないので、すべての人に適応するかどうかはいえないけれど、同じような症状で悩んでいる人がいるのなら、ひとつの参考までに気にとめていただければとも思う。(必ずしも全員が改善するといえるものでないと思うので)

 

個々のやめたことに対して、代わりにどうしているのかというのも書きたいが、長くなってしまったのでまた次回。

pataco

-あなたという人はこれまでもこれからもひとりしかいないのだ- 

 ドキュメンタリー映画「アラヤシキの住人たち」を観て

 

「あなたという人は地球始まって以来、絶対いなかったはずです。あなたという人は地球が滅びるまで出てこないはずなんです。わたくしはそう思っています。」

 

 これは、「アラヤシキの住人たち」に出てくる冒頭の言葉。映画の舞台である、長野県・真木の共働学舎を創設した宮嶋眞一郎さんの言葉だ。私には、このひとことにこの映画の全てが詰まっている気がした。冒頭の言葉だけでも、強く心を打たれて涙が出そうだった。

 宮嶋眞一郎さんが立ち上げた真木の共働学舎は、現在、眞一郎さんの次男、宮嶋信さんが運営している。

 映画が映し出すのは、共働学舎で共に住む人たちの日常、暮らしだ。

 米作りがギリギリ可能な標高の山の上。車が入ってこられない土地のため、ふもとに降りるには1時間半ばかし、山道を歩かないといけない場所だ。真木に誰も住まなくなった集落があり、そこを利用したそう。共働学舎の人たちは、集落にあった一番大きくて立派な茅葺き屋根の古民家に、名前の通り、共に働きながら暮らしている。

  朝一番、住人が交代で鳴らす板木(ばんぎ)のカンカンカンという音が山に響き渡る。一日が始まって、みんなで役割分担しながら、窓そうじしたり、山羊の世話をしたり、ひとつのテーブルでごはんを食べたり、田植えや野菜の収穫をしたり。大きな事件が起こるわけではない。淡々と暮らしている姿を映し出す。 

 真木で繰り返される人々の暮らしは、「生きる」ことの原点に近いと思った。 鳥のさえずり、茂る緑、田園、遠くにそびえる山々の美しい景色に囲まれ、自然を間近に感じながら、自分たちの食べるものを自ら、みんなで協力して作り、収穫し料理して共に食べる。1日はそれだけで過ぎる。本来、人間の生活とはそれだけで十分ではないかと思える。そして、映像に映し出される自然の姿は本当に美しかった。

  共働学舎で暮らす人には、一般的な社会ではちょっと生きづらいかもしれないなという人たちも多い。例えば、田植え作業のときに、苗を1本植えるごとに立ち止まる。1日の作業量はとても少ない。効率を重んじる現代企業であれば、そんなことは許されないだろう。

 でも、共働学舎では、どんな人であっても、ひとりひとりが認められる。作業がゆっくりだったとしても、その人独自の時間の進み方に、まわりの人たちは焦っていた自分の姿を気づかせてもらえたりもする。

 人はみな違う。それぞれの良さがある。すべての人が同じになる必要はない。どのような人であろうと、誰もが尊い存在なはずだ。みんなが効率よく、場に従順に、同じようにと求められ、締め付ける現代社会では、異なる他人を認めるという行為が希薄だ。共働学舎は、現代社会の風穴のようなところだと思った。

 映画を通して、自分とリンクしたこと。それは、ずっと何かをしなければならない、そのために行動しなければならないというような焦る気持ちがあったけれど、たとえ何かを成し遂げなかったとしても、ただ生きるだけでも、自分が生きる価値や意味は十分あるのではないかと思えたことだ。つい、すごい人たちを見上げ、そうなれない自分はダメだと思う。でも、映画の冒頭の言葉のように、ひとりとして同じ人はいない。違う人だから、他の人のように生きれるはずもない。自分の心に素直に従って生きればいいのだと、たとえ自分の生が一見、何の価値も生み出していないようにみえたとしても、何らかの一歩は歩んでいるはずだし、価値がないことにはならないと思い直せた。そもそも、生きているだけで価値があると願いたい。

 まずは自分で自分を認めてあげたいと思った。

 

「アラヤシキの住人たち」は、私がドキュメンタリー映画に興味を持つきっかけとなった映画「バオバブの記憶」を撮った監督、本橋成一監督の6年ぶりの新作です。

 

初回の上映からは時間が経っていますが、ずっと見逃していた映画で、今回、東京都・国分寺市にあるcafé slowさんで宮嶋信さんのトークショー付きで上映会をすると知り、即参加すると決めました。当日は、真木で獲れた野菜を使ったピタサンドやマフィンなども食べられて、トークショーでは共働学舎の背景も直接うかがえて有意義な時間でした。

 pataco

arayashiki-movie.jp

「ヴィンセントが教えてくれたこと」が心を打った4つの理由

表題の映画、はっきり言って期待していなかった。

でも、予想に反して感動して泣けたし、観終わった後も後味がいい。

何がよかったのかまとめてみた。

 

①どんなことが起こっても生き抜く人間の姿が描かれている

 これが一番感動した。ストーリーのなかでは、つらいこととか、人によっては苦悩にうちひしがれてしまうのではないかと思うような出来事に遭遇しているのだけど、それでもこの映画の登場人物、特にヴィンセントはそれを受け止め、自分を忘れないしユーモアも忘れない。ひとりの人間が自分の人生を生き抜く強さを感じられる。それと、人は誰しもそれほど単純ではなく、さまざまな面を持っていて、複雑に生きているんだなってのも思った。

 

 ②ヴィンセントとオリヴァーが互いに心を近づけていくドラマがいい!

ヴィンセントの隣に母と二人で越してきた小学生のオリヴァーのシッター役をひょんなことからヴィンセントが引き受けることになるのだけど。最初はぶっきらぼうな不良ジジイのヴィンセントとオリヴァーが一緒に競馬したり、バーに行ったり。触れ合うなかで徐々に友情を深めていくのが映像から伝わり、心を打った。ジジイと子供という設定も感動に拍車をかけた。

 

③音楽のセレクトがよいのと、流れるタイミングも抜群!

「えっ!この場面でこのセレクト?」だったんだけど、妙に合っているし、重苦しくなりそうな場面でもテンポよく感じられて、嫌な空気にならずに観れる。音楽が流れるタイミングもベストで、ストーリー展開をスムーズにしていた。終始飽きずに楽しめたのは、音楽の効果が大きかったと思う。選曲でいうと、個人的にはgreen dayとか、エンディングがボブディランてのがツボだった。

 

④主演俳優ビル・マーレイの演技が絶妙

最初、以前に比べると歳をとったなと感じさせるビル・マーレイがなんだかイケてないような雰囲気で少しがっかりな気持ちになったのだけど、ところがどっこい!それも演技のうちだったのか、徐々に頭角を現していった。やはりあの絶妙な表情や間のある演技が素敵だった。ビル・マーレイの味のある演技も映画の満足度をアップ。

www.vincent.jp

ドキュメンタリー映画「トゥルーコスト」を観て

NETFLIXでスマートフォン端末上で映画を観た。

ドキュメンタリー好きの私が選んだタイトルが「真の代償」。

NETFLIX上では真の代償というタイトルで登録されていたが、この映画は「ザ・トゥルーコスト~ファストファッション 真の代償~」というタイトルで配給会社「ユナイテッドピープル」の配給で、11月14日、渋谷のアップリンクで公開が開始される。

 

 ファストファッションといえば、日本でも低価格で話題性もあり、よく購入するという人もいるだろう。これはそのファストファッションの裏側にスポットライトを当てて、ファッション業界の闇の部分を追っていくドキュメンタリーだ。

 

 たかだか20年ほどで衣服の低価格化がものすごい早さで進んだ。ファストファッションに人々は飛びつき、衣服をたくさん買うようになった。でも買ってはみたものの、あまり似合わない、安いからいいやとまた次の服を手にとる。そんなサイクルで先進国の人たちが購入する衣服の量は増えた。

 

 だが、ファッションが低価格化する、その代償を誰がとっていたか。先進国のファストファッション企業から強いられ、劣悪な環境や待遇で働かされる発展途上国の人たちの言葉や姿が映し出される。まだ記憶にも新しいバングラデシュで倒壊したファストファッションの縫製工場のニュース。この倒壊では死亡者も多く出た。倒壊の恐れのある建物で人々は働かされていたゆえに起こった出来事だ。

 

 衣服の原材料である綿花の栽培でも同様だ。モンサント社がインド農家の土地を買い取り、大量に生産されるファストファッションブランドの衣服のための綿花をつくるために働かせる。栽培の手間を省くために、モンサント社が売るラウンドアップという除草剤を大量に撒く。その結果、インド人農家の健康を蝕み、農作業ができなくなる。そうなれば、モンサント社は契約を打ち切るといい、インド人は自殺を図る。

 

 大量消費のために途上国の人たちを買い叩いて作られた衣服は、先進国でファストファッションに群がった人たちによって、簡単に捨てられる。

捨てられた衣服はどうなるか?200年もの間、土に返ることもなく有害物質を発生させる。衣服を捨てる場所の土地だけを占拠して…。

 

 映画のなかでは、問題を追いつつも、その問題に立ち向かっているピープルツリーの代表やジャーナリストなどの活動家たちの活動にもカメラを向け、取り上げている。彼らの主なメッセージは「消費者も考える必要がある、消費者や大きなシステムを変えれば、この問題点は変えることができる」。

 

 たいてい服を買うとき、価格やデザインにしか目がいかない。その衣服を作るのに誰かが犠牲になっているかもしれないなど、多くの人はその1枚の衣服からは考えつかない。

私もこの映画を観るまでは、同じ。例えばユニクロの商品でも安いからとつい、そこまで

気に入っていなくとも、購入する。その後はすぐ捨てることなく長く使う。だがMADE IN ~のタグでなんとなく感じとってはいたものの、どんな場所で誰が作っているかは明確に意識していなかった。

 

 このファストファッションの問題点を解決するとしたら、それはやはり活動家たちも考えるように、消費者が考えるしかないのだと思う。その衣服は本当に自分に必要か?ずっと着ていたいと思う服なのか?購入する前によく考えるべきだ。

必要なのは、今起きていることをそれぞれの消費者が直視すること。その上で、自分はどう消費活動をするか。企業の誇大広告や宣伝に惑わされることなく、自分自身で判断することが必要なんじゃないだろうか。

 

 衣服に限らず、作り手の顔が見えて何十年と使いたいと思えるようなものを選んで買えば、身に付けたり、使う自分自身も心地よい。暮らし方もていねいになって、心も満たされる。安いものを大量に買うのではなく、気に入ったものを厳選して買う。多少高くても、気に入ったものならその金額に見合うだけの対価は絶対にある。きちんとその商品に見合う対価を支払うことで作る側と買う側の関係も対等になる。

 

 企業は消費者が求めることをする。消費者がちょっと立ち止まり、問題点を直視し自分の消費活動を省みることで現状を変えることは大いにできるはずだ。ひとりでも多くの人がそのような考えに至れば、それが企業を変える大きな力になる。

 

 今までなんとなく感じていたファストファッションの問題も、この映画を観ることで、自分のなかで見逃せない問題点に変わった。物を買うときは、よく考えて必要以上に物を買わない、買うならば吟味して、作り手の顔を意識できる物を選び取っていきたいと思った。

衣服を買う人なら誰でも、観る必要があるのではないかと思わせる作品だ。

 

pataco

ブログで心機一転?

 ここ数日、絶賛凹み中で、

時折、「穴があったら、埋めてくれー!」という気持ちに頻繁になった。

それというのも、とあるワークショップで周りの人との格の違いを肌に感じまくったからで、自分の存在が皆さんに到底及ばず、どっぷり落ちこんでいたのが理由だ。

他人と自分を比較しても仕方がない、目の前のこと、できることをやるしかない!と思っても、そのときの恥ずかしい場面がすぐに頭に蘇ってきて、冒頭に書いたような気持ちについなってしまう。

 どんよりした気持ちを振り払うために、気持ちを落ち着ける、整理する意味も込めてブログを始めようという勢いがついた。

少し前からブログをやりたいなと思いながらも、ついつい先延ばしにしていた。頭の中では出来上がったブログをイメージしていたけど、まだ準備が足りないだのなんだのでなかなか始めず仕舞いだった。

 でも、今日気づいた。いや、正確に言うと気づいてはいたけど実感した。準備が整ってなくても、一旦始めてから徐々に調整していけばいいんだと。始める前にあーだこーだ考えても、その通りにいかなかったりもする。だったら、さっさとやってしまってから、その手ごたえで微調整を繰り返していけばいんじゃなかろうかと。

そしてとうとう、ブログを始めてしまいましたが、

今日の本当の気づきはマイナスな気持ちが何かを始める原動力になることもある、てことでしょうか。

これからいろいろ書き綴りたいと思います。ぼそぼそと続けていけたら幸いです。

 pataco