-あなたという人はこれまでもこれからもひとりしかいないのだ-
ドキュメンタリー映画「アラヤシキの住人たち」を観て
「あなたという人は地球始まって以来、絶対いなかったはずです。あなたという人は地球が滅びるまで出てこないはずなんです。わたくしはそう思っています。」
これは、「アラヤシキの住人たち」に出てくる冒頭の言葉。映画の舞台である、長野県・真木の共働学舎を創設した宮嶋眞一郎さんの言葉だ。私には、このひとことにこの映画の全てが詰まっている気がした。冒頭の言葉だけでも、強く心を打たれて涙が出そうだった。
宮嶋眞一郎さんが立ち上げた真木の共働学舎は、現在、眞一郎さんの次男、宮嶋信さんが運営している。
映画が映し出すのは、共働学舎で共に住む人たちの日常、暮らしだ。
米作りがギリギリ可能な標高の山の上。車が入ってこられない土地のため、ふもとに降りるには1時間半ばかし、山道を歩かないといけない場所だ。真木に誰も住まなくなった集落があり、そこを利用したそう。共働学舎の人たちは、集落にあった一番大きくて立派な茅葺き屋根の古民家に、名前の通り、共に働きながら暮らしている。
朝一番、住人が交代で鳴らす板木(ばんぎ)のカンカンカンという音が山に響き渡る。一日が始まって、みんなで役割分担しながら、窓そうじしたり、山羊の世話をしたり、ひとつのテーブルでごはんを食べたり、田植えや野菜の収穫をしたり。大きな事件が起こるわけではない。淡々と暮らしている姿を映し出す。
真木で繰り返される人々の暮らしは、「生きる」ことの原点に近いと思った。 鳥のさえずり、茂る緑、田園、遠くにそびえる山々の美しい景色に囲まれ、自然を間近に感じながら、自分たちの食べるものを自ら、みんなで協力して作り、収穫し料理して共に食べる。1日はそれだけで過ぎる。本来、人間の生活とはそれだけで十分ではないかと思える。そして、映像に映し出される自然の姿は本当に美しかった。
共働学舎で暮らす人には、一般的な社会ではちょっと生きづらいかもしれないなという人たちも多い。例えば、田植え作業のときに、苗を1本植えるごとに立ち止まる。1日の作業量はとても少ない。効率を重んじる現代企業であれば、そんなことは許されないだろう。
でも、共働学舎では、どんな人であっても、ひとりひとりが認められる。作業がゆっくりだったとしても、その人独自の時間の進み方に、まわりの人たちは焦っていた自分の姿を気づかせてもらえたりもする。
人はみな違う。それぞれの良さがある。すべての人が同じになる必要はない。どのような人であろうと、誰もが尊い存在なはずだ。みんなが効率よく、場に従順に、同じようにと求められ、締め付ける現代社会では、異なる他人を認めるという行為が希薄だ。共働学舎は、現代社会の風穴のようなところだと思った。
映画を通して、自分とリンクしたこと。それは、ずっと何かをしなければならない、そのために行動しなければならないというような焦る気持ちがあったけれど、たとえ何かを成し遂げなかったとしても、ただ生きるだけでも、自分が生きる価値や意味は十分あるのではないかと思えたことだ。つい、すごい人たちを見上げ、そうなれない自分はダメだと思う。でも、映画の冒頭の言葉のように、ひとりとして同じ人はいない。違う人だから、他の人のように生きれるはずもない。自分の心に素直に従って生きればいいのだと、たとえ自分の生が一見、何の価値も生み出していないようにみえたとしても、何らかの一歩は歩んでいるはずだし、価値がないことにはならないと思い直せた。そもそも、生きているだけで価値があると願いたい。
まずは自分で自分を認めてあげたいと思った。
「アラヤシキの住人たち」は、私がドキュメンタリー映画に興味を持つきっかけとなった映画「バオバブの記憶」を撮った監督、本橋成一監督の6年ぶりの新作です。
初回の上映からは時間が経っていますが、ずっと見逃していた映画で、今回、東京都・国分寺市にあるcafé slowさんで宮嶋信さんのトークショー付きで上映会をすると知り、即参加すると決めました。当日は、真木で獲れた野菜を使ったピタサンドやマフィンなども食べられて、トークショーでは共働学舎の背景も直接うかがえて有意義な時間でした。
pataco